先日JOKERをみてきました。
— Koji Wakamiya (@D_R_1009) 2019年10月15日
そんなわけで、思ったこととか書いておきたいと思います。 ネタバレになるかはわからないけれど、見終わった感想を見ないで映画を見てもらいたい気持ちもあるので、見る予定のある人はブラウザバックしてください。
”ネタバレ”についてのお願い#ジョーカーhttps://t.co/mBiqUutqOM
— Koji Wakamiya (@D_R_1009) 2019年10月16日
公式もこう言っている。。。
感想です。 なんとなーく「こういうところが大きかったのかなー」みたいなところを羅列する感じになっちゃいました。整理できてない。
社会の中の恐怖
まず感じたことは、作中で「個」が「社会」に対して恐怖と混乱、暴力を与える構図になっていたことです。 「組織、組織された個人、もしくは組織に支援された脅威」が「社会」に恐怖や混乱、暴力を与える図ではありませんでした。 無名のピエロ(の殺人鬼)が社会の中で支持され、ジョーカーがカメラの前で行動することで、秩序が壊れる様子が描かれています。
あまり時流に載せて考えすぎるのもどうかと思いつつ、「ジョーカーはローンウルフ型のテロリストと置かれている?」みたいなことを考えながら試聴していました。
本作はアメコミというフィクションの中の、ジョーカーというフィクションのキャラクターを描いていますが、その恐怖を我々がじんわりと感じているものにすることで、嫌なリアリティを与えているように思います。
アーサーの孤立
アーサーが初登場するシーンでは、アーサーはまだジョーカーではなく、また社会的なつながりを持った人物です。 仕事を持ち、社会的なサポートを受け、家族との信頼関係を保有しています。少年たちに襲撃された直後であっても、「身を守るため」と差し出された拳銃を拒絶するだけの良識を持った人間でした。
そして、一つ一つつながりを失っていく姿が描かれます。
映画の中で、唯一「アーサー」の意思や行動に関係なく繋がりを保つことができたのは、社会的な繋がりのみ。 なんとも現代。市の予算が打ち切られるのも現代。
娯楽の違い
作中、アーサーの家のテレビは白黒テレビからスタートしました。芸人の控え室のテレビも白黒テレビです。テレビ局のモニターにはカラー映像が放映されているため、すでにカラー放送が普及している世界であることが明らかでしょう。 「デモ」の中、シネマでは富裕層がチャップリンの白黒映画が映し出されていました。 富裕層にとっての白黒映像は、それ自体を娯楽として楽しむことができる立場となっています。
社会の邪悪さ
ジョーカーは孤独ではあるけれど、その存在は社会の中になければ生まれるものではなかったように思います。 社会の中だからこそ生まれる存在として、ジョーカーが置かれていたように感じました。
この点で他の作品のジョーカーとの立ち位置の違いから拒絶感がある人もいるでしょうし、また「あり得そうな」キャラクターとしてのジョーカーに親しむ人もいるように思います。
無邪気さ
冒頭、アーサー扮するピエロに暴行を加える少年たちに悪意はなさそうに見えます。ただ単にピエロがいたから悪戯して、笑っているだけです。 彼らにとっては単なる暇つぶしであり、つまり娯楽としての暴行が描かれます。
次に表現されるのは、地下鉄の中でのハラスメントです。 エリート男性陣にとっては単なるナンパです。ちょっかいをかけられた女性の恐怖、迷惑には全く関心がありません。 彼らにとっては仲間こそが感情を慮る対象であって、それ以外はそうではないからです。(だからこそ、その後の暴行も娯楽を邪魔された憤りであり、鬱憤ばらしたり得るわけで)
作中、最も露悪的なのがテレビ局からアーサーに対するオファーです。 許可なく放映した映像(笑い物にする映像)をもとに、朗らかにオファーの電話をかけているシーンでは、アーサーに対して「出演のメリット」の交渉は行われません。 自分たちが相手を傷つけたかもしれないとは考えず、もし考えたとしても「小さなこと」として無視をしています。 ここでアーサーが怒りを表明しないことが、より深い復讐へと繋がっていくことはご存知でしょう。
レンズ
作中の無邪気さへの非難は、観客へ向けられているように感じました。
コメディーショーは誰が録画したのか、なぜ録画されていたのか、どうしてテレビ局のショーとして放映されたかは定かではありません。 自分が感じたのは、観客がいるから撮影されて放映された、ということです。 ジョーカーがテレビカメラに向かって語りかけるシーンから思うに、我々こと観客は常にレンズの向こう側から意識されている存在です。
映像は見る人のために作られ、また見る人がいるから広まります。 映像作品は、観客がいなければ完成しないのではないでしょうか。 そういった意味で、無邪気さによる暴力を増長しているのは、我々観客です。
銃
アーサーは明らかにネジが飛んだ人物でした。 実弾を入れていたことを忘れて室内で発砲し、実弾を入れた銃を持ち歩くことに疑問を持ちません。
我々は、隣に立っている人が実弾入りの銃を持っているかどうか、考えません。 また下に見て弄った相手が銃を持っているかどうか、考えません。(それ故に、ショーの司会者は頭を撃ち抜かれます。)
アーサーが特殊だと見ることもできるが、もしかすると、これまでに関わった人がたまたま銃を持っていなかっただけかもしれない。 今殺されずに生きているのは、たまたま銃を持っていない人に出会っていただけなのかもしれない。 そういった(あり得ない)思考を与えるという意味で、本作の銃は邪悪の象徴だと感じます。
不快感と恐怖と
自分にとって、ジョーカーは「悪い方向にありとあらゆる事柄が重なれば」というifの話でした。 ジョーカーと自分が重なることはないし、今の社会がああもなると(肌で)感じてもいません。
一方で、アーサーの怒りや不快感は常に見知っているものです。 例えば、私は流れてくる「街中で」「面白がって」撮影された映像というものが好きではありません。 そういった映像の中に”たまたま”暴力が存在していないように感じ、笑っていられる気がしないから、というのが大きくあるためです。
この不快感を感じているのは、よい"フィクション"だなと、強く思っています。
終わりに
Joker | Final Trailer | Experience it in IMAX®
本作は人から見れば「全てがフィクション、英語の物語」に見えるでしょうし、人から見れば「人が追い込まれていく喜劇」にも、「人が追い込まれていく悲劇」にも見えると思います。 病院のカットやパトカー内のカットなど、ダークナイトの「じょーかーのきもち」を補いより味わい深くしてくれるシーンもあり、大満足でした。
もう一度は、見たくないなぁ。。。
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頼むぞバットマン。